昭和四十九年五月二日 朝の御理解


御理解第三節 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」


 思い違いとか考え違い。そこから難儀が生じて来る。これは、人間同志の場合であってもそうである。思い違い、考え違い、それを例えば、本当のことが判った時に、初めてお詫びの心が生まれて来る。だから、本当なことが判ったら、本当なことにならなければならん。如何に「詫びれば許してやりたいのが親心だ」と言う天地の親神様でも、そこのところを判らせられて、判ったようで判っていない証拠に難儀が生じておる。私はこの御理解三節は、本当にそこの私共の難儀の元と言うかそういうものが判るのですから、ここのところがすっきり判ったら、それこそ、おかげを受けて行かれると同時に、「末々までも繁盛致すこと」と言うおかげ、または「氏子ありての神、神ありての氏子と、上下立つように致す」と言う、神人共栄、神様も立ち行かれ、私共も立ち行くと言う、上下立つようなおかげになって来なければならない、と言う程しの教えがこの御理解三節の中には含まれておる。その内容を持っておる御教えですから、お道でも、この御理解三節は大変、 どれが大事で大事でないことはないですけれど、大事に言われておる訳であります。
 如何に大事に言われておっても、そこのところがやはり自分の思い違いであった、考え違いであったということが判ると言うこと、例えば、「神仏の宮寺、氏子の家宅、皆、神の地所」と言うことは、言うならば、私視するものは何一つないと言うことなんです。自分の物というものはない。私の家だ、私の土地だと言っておるけれども、そういうものは更々ないんだと、一切が言うならば、天地の親神様の御ものであるという、その見地に立たせてもらう。ところが、なかなか、それがね、わかっておって実際がやはり自分のものとしておるところに、やはりミスが生じて来る訳ですね。
 そこで私共が、小さい些細なことから、事柄また些細なものの中からでもです。私共が本気で神様の御物であると言うような頂き方を身につけて行くということ、その身につけて行くうちに、次第に成程神様の御ものだなと言うことが判って来る。神様の御ものだと言うことが判って来るところにです。私共は我情我欲を離れて、いわゆる真の道が判る、我情我欲と離れて、成程神様の御神徳の中に恵まれ生かされておるということが判るように、そこから神恩奉謝の心が生まれて来るのであり、そこから神様も助かって下さり、私共も助かって行けれる道が開けて来るのです。
 ですから、これをただ、成程例えば、「日柄方位ばかり見て、無礼いたし」と言うことなどでも、これは本当でないことを本当だと思い込んでおる。そこから間違いが起こるのだと判らせて頂くのですから、なら日柄方位というようなものがないという事実をね、私共が体験するためには、やはりそれを、まあ判る判らんは別としてです、例えば、なら結婚、そう言うものに拘らないで済む行き方をさせて頂いて、成程それが本当だと言うことをやはり判らなければいけない。
 先日から、田主丸のむつやさんところの二番目の息子の結婚式をここでさせて頂きましたが、もういわゆる黄道吉日を選んでやったために、料亭が全部塞がってしまっているし、もう何もかにもが一杯だと、そこで、なら、あんた、その前の日にしたらどうかと言うわけで、前の日にさせて頂きましたから、もう料亭なんかは、言わば、がら空きの時ですから、全員でサービスしてもらうことが出来る。無事に夕べ新婚旅行から帰って来ました。大変おかげを頂いて帰って来とる模様でございました。もうそれが愚にもつかないことであっても、思い違い、考え違いと言うことを、本当のことが判らないとです。それこそ愚の骨頂のようなことをしなければならないが、そのこと自体が、天地に対する無礼だと仰せられるのですから、やはりそれを実行して見なければいけないのです。
 なら一切のものが神様の御ものであるということで、例えば食物なら食物でも、神様の御ものとして、恵まれものとして、それを押し頂く心というものをつくって行くうちにです。そこから生まれて来る体験、例えば、お百姓される方が、今までは自分が作っておると思うておったのだけれども、神様のおかげで作らせてもらうのだ、土地も神様のお土地であり、またはその種も一切すべてがそうである。神様のおかげを頂かしてもろうて、私共は、例えば、野菜作りなら野菜作りの手伝いをさしてもらう。そこに見事にお野菜が出来る、本当に神様のおかげでこういう見事なお野菜が出来たということが判っておるならばです。それが、高いの安いのと言うて、不平不足の言えるはずはない、お百姓さんは。だから本当に、例えば高いとか安いとかというのではない。神様の、言うならお恵みによって、御ものとしてここに野菜一本が出来たということに対する、私は感謝と言うものがあるならです。高いとか安いとか言わんで済むようなおかげ。そこにはです。次の体験と言うか、言わば、そう言う行き方で行く時に、高く売れるというようなおかげにもなって来る。それが段々判って来れば来る程そうなって来る。
 久富繁雄さんところ辺りの、お野菜出しのことを、いつも聞かせてもらうと、「あんた方のとだけはコロッと高か」と皆から言われるようにです。それはやはり、その辺のところの道理が、いわゆる本当なことか判って来よんなさるからである。今までは、自分の土地であり、自分が作った野菜であると、そういう思い方が間違いであることが段々判って来て、お土地に対して、または、お野菜に対して、そう言う思い方が変わって来るところに、言わば、出すところ出すところ、言うなら高値で売りさばかして頂く程しのおかげが約束されておる。そこでいよいよ、もっともっとそこが募って来なければならん。天地の親神様のおかげを頂かなければ、お土地も神様の御土地であり、出来たお野菜そのものも神様のお野菜である。「ちょいと畑に行って大根一本とって来い」と言ったようなことではなくて、「頂いて来い」と言うことになるのです。こら、「畑に行ってから大根一本とって来い」だから、取って来るようなことをするから、おかげにならんのです。そう言うところからです。思い違い、考え違いというものが正されて来る。
 それが、一事が万事に、その思い違い、考え違いのところが、本当のことが判って、本当のことを行ずれば、こういうおかげが受けられるという体験を積んで行くということになるのです。そういう行き方になるから、言うならば、高いの安いの言わんで済むと言う事はですね、我情我欲が段々次第に取れてくる。甘木の初代などは、天地に対するその御恩徳ということを力説された、説かれた。それが段々、その情が募れば募る程、一切が神様の御ものとしての頂き方が出来られるようになった。食物だけではない、家屋敷だけではない、お金でもそれを浄財として頂かれるようになった。浄財なのだ、神様のね、神様のお金ですから、淨いお金、その淨いお金をですね、私事に言わば、無理に使うようなことをしてはならないというような信心が生まれなさって、ああいう大徳、同時に、ああいうおかげを受けて行かれた。
 元を正すとです。自分の思い違い、考え違いというものを、が、正されて来たから、ただ判っただけではなくてそれがです。野菜一本の上にでも、例えば安武先生の場合なんかは、それこそ、枯れ枝、枯れ葉一枚の上にも、その念をいよいよ強く頂かれることになって来た。いわゆる本当のことが判って来られた。そこに自ずと我情がとれ、我欲がとれ、我身は神徳の中に生かされてあるという事実を日々です。感じさして頂けれる心の状態の上にです。限りない例えば、甘木関係の方達が沢山おかげを受けられたように、ああいうおかげになって来るのです。いよいよ成程、神も助かり氏子も立ち行くということになって来るのです。
 だから、私は、この御理解三節はそういう、まあ信心の、お道の信心の根本的なところを、教えて下さってある。しかも、この御教えこそがです、お釈迦様も説き得ていなかった、キリスト様も説き得ていなかった、金光大神にしてはじめてこのことが、世に問われ、または、説かれたと言うことになる。世に問われる、そこからです。関心を持ち出した、持ち出す。成程教祖金光大神が言われるのが本当だというふうに、判って来て、来ることを、私は開眼だと思うです。金光教的開眼だと思うです。皆さんも一応はです、私今日申しましたようなことは皆知っておられるのです。知っておられるけども事実は、まあだ、自分のものであるということの念の方が強い、思いの方が強いんじゃないですか。それをだから、小さい事からでもよいからです。一すくいの水でも一粒のお米でも、粗末ご無礼にしないという生き方をです。本気で身につけて行くところから、成程と言う次のおかげが約束されるのです。
 例えて申しますと、石鹸なら石鹸を私はこのようにして、お粗末に使ってはならないと言うて使わせて頂いて居れば、石鹸に不自由することはない程しのおかげが生き生きと表れてくる。それを聞かれた桜井先生が、早速実行されることになったら、本当に他の物は不自由しても、石鹸だけには不自由しないということになって来た。だから、神様の下されもの御ものとして頂かなければ居られないのだ。私はそういう体験がいよいよ育って来るところから、いわゆる大きな意味においての、一切が神様の御ものとしての頂き方、これは例えば日柄方位のことであっても同しこと、そういう愚にもつかないことを理屈をつけて、それがいかにも本当の様に思い込んでおる。同じ例えば宗教というても、そういうことを売りものにしておる宗教すらがあるくらいなんだから、ね。言語道断です。そういうことが言わば、教祖の神様の御出現によって説き明かされた。だから、私共それを、聞かせてもらい、頂かせてもらい、そして成程そうだという事実を判った時初めて、そのものが大事にされることになる。尊いものとして扱うことが出来るようになる。
 そこからです。言うならば、不自由のない生活、初めて神様が助かって下さる世界、神様と氏子とが一緒に、「上下立つようにいたす」と仰せられるおかげの実現と言うことになって来るのです。これはね、判っただけじゃいかん、やっぱり一つ本気でそれをね、分からん、ほんなことは、神様のものかどうか分からん。けども、話を聞くと神様のものだと言うことだから、ほんならばいっちょ本気でそれを大切にしてみろうと言う気持ちにならにゃいけんと。石鹸一つの例をとってもそうなんです。そしてそれは、神様の御ものとして訳はわ分からんけれど大事に扱うことをさせて頂いておったら以来、石鹸の不自由をしないと言う程しの、言うなら上下立つというおかげになって来た。だから、石鹸だけのことではない、私どものこうして使わして頂いておる一切のもの、言うなら家屋敷すべてがです。神様の御ものだとしてのところから、段々我情も我欲も言わば、取れて来るところのおかげ、そこから神様の御ものとして、それを大事にさしてもらう。そこから言うなら、生まれて来るのが金光教的体験、金光教的おかげであると思います。
 そのおかげを頂いた時に初めて、神も助かって下さるのであり、私どもも助かる。いわゆる、「神ありての氏子、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようなおかげ」になって来るのであります。まあ繰り返し申しても、繰り返し申しましても、そのことは、本気で私ども取り組んで判らなければならないことなのですから、そしてそこから、教祖金光大神が説かれたことがです。真、今までの宗教には説き得ていなかったところを判らしてもらい、今までの宗教では頂けなかったおかげを、頂き現して行くということにもなって来る訳ですね。
どうぞ。